先週、東京ドームで行われたオークランド・アスレチックス対シアトル・マリナーズによる2019年メジャーリーグベースボール(MLB)開幕2連戦を観戦に行ってきました。
埼玉西武ライオンズからポスティングシステムでマリナーズに移籍した菊池雄星は、2戦目に先発でメジャーデビューを飾りました。
好投していましたが勝利投手の権利まであと1人という場面で交替。
メジャー初勝利は次回登板以降に持ち越しとなりました。
そしてイチローは2試合とも9番右翼で先発出場。
合わせて5打数無安打1四球という結果でした。
2戦目の8回表に巡ってきた最後の打席は、あと一歩で内野安打というところでしたが、全力疾走及ばず……。
そしてその裏、一旦右翼の守備についた後に交替を告げられ、場内がどよめきと歓声と拍手に包まれる中、日本が誇る安打製造機はグラウンドを去りました。
試合終了後もイチローコールが繰り返し響いていた東京ドーム。
再び背番号51がフィールドに姿を現した時の大歓声は、生涯忘れられません。
イチローが場内を一周している時間というのは、観客の声と拍手に応えてグラウンドに戻ってきてくれた感激と、伝説の終焉を目の当たりにしているという悲しさとが入り交じると同時に、今まで神戸やシアトルやその他の球場で見ることができたそのプレーがもう二度と見られなくなるという現実を突きつけられ、当たり前だと思っていたことは決して当たり前じゃなかったんだということに今頃気付いてしまったことに絶望感を覚えながら、無論イチローの幾多の大記録や名シーンが脳裏を巡ること走馬燈の如しで、とにかくとりとめもなく種々雑多な感情が渾然一体となって心がざわつき、終始視界はぼやけているという、もうどう表現すれば良いのかわからない状態でありました。
その後、イチローはユニフォーム姿のまま記者会見を行い、正式に現役引退を表明しました。
日本で9シーズン、米国で19シーズン。
通算で4367安打を放ってきた日本の至宝は、45歳でついにバットを置くこととなったのです。
1994年、オリックス・ブルーウェーブの20歳の外野手・鈴木一朗は、仰木彬監督の発案で“イチロー”というグラウンドネームでプレーすることになりました。
開幕直後は下位を打つことが多かったイチローですが、安打を重ねるうちに1番打者に定着。
イチローというユニークな登録名も手伝って、次第に注目を浴びるようになっていきました。
最終的にこのシーズンは日本プロ野球で初めてシーズン200安打に到達する活躍でMVPに。
イチロー現象は野球界の枠を超えたセンセーションでした。
前年の1993年はJリーグ元年で、日本中が空前のサッカーブームに包まれていました。
テレビも新聞も(インターネットはまだ普及していなかった)サッカー、サッカーで、「プロ野球はどうなってしまうんだろう」という思いを抱えて毎日を過ごしていた記憶があります。
そんな状況からのイチローの大ブレイク。
スポーツニュースの中心がプロ野球になる日常が戻って来たのです。
私の目には、イチローはまさに日本プロ野球の救世主として映っていました。
スタジアムで観戦した試合でのイチローのプレーで印象に残っているものはいくつもありますが、一つあげるとすると、1999年、グリーンスタジアム神戸で当時ルーキーだった松坂大輔(西武ライオンズ)から打った通算100号本塁打でしょうか。
この試合は松坂の神戸での初登板が予告されていたこともあり、スタンドは満員でした。
実は、イチローブームも落ち着いたこの頃には、グリーンスタジアムが満員になることもめっきり減っていたのです。
平成の怪物・松坂大輔への注目から満員になった球場で放たれた一発に、イチローの意地を見ました。
松坂との初対決では3三振を喫していたイチローでしたが、本拠地でお返しする打撃に感動したものです。
この時に100本塁打のメモリアルアイテムとして販売されたテレホンカード(!)を買ったんですが、どこ行ったんだろうなあれ(笑)。
ビジター用ユニフォームのイチローがデザインされたものでした。
イチローは210安打を記録した1994年から7年連続首位打者という考えられない成績を残し続け、いよいよ戦いの舞台をMLBへと移します。
移籍先はシアトル・マリナーズ。
阪神タイガースからFAとなってニューヨーク・メッツと契約した新庄剛志を含め、初めて野手の日本人メジャーリーガーが誕生したオフシーズンでした。
2001年、イチローはメジャーの新人最多安打記録を更新する242安打を放って首位打者のタイトルを獲得。
盗塁王、ゴールドグラブ賞、新人王、そしてMVPにも輝く活躍を見せ、「日本人野手はメジャーでは通用しない」という下馬評を完全に覆したのでした。
私は2010年にシアトルを訪れ、イチローのメジャーでのプレーを見ることができました。
本拠地のセーフコ・フィールドで、地元のファンから誰よりも大きな歓声を受けていたのがイチローでした。
マリナーズで10年間プレーしてきて、その間にメジャーでもシーズンの最多安打記録を更新するなど、シアトルでもその人気は確固たるものになっていました。
前述のように、日本時代終盤にはいくら活躍を見せても観客動員が少なかった様子を目の当たりにしていたので、「イチローさん、米国に来て本当に良かったなぁ」というのが、日本の野球ファンとしては寂しくもありながら、セーフコ・フィールドでしみじみ感じたことでした。
イチローと言えば、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で第1回(2006年)、第2回大会(2009年)と、日本を連覇に導いたことも書いておかねばなりません。
記念すべき第1回大会であり、あまつさえMLBの主催であるにもかかわらず、はなから出場する気のないメジャーリーガー、そして主力選手を出場させる気のない球団が多い中、日本代表として参加することを表明したイチローに、日本の野球ファンは歓喜しました。
既にMLBでもチームの中心選手として素晴らしい実績を残していたからこそ、球団も本人の意向を汲んで出場を認めたのだろうと思います。
第1回大会では米国戦での先頭打者本塁打に震えました。
メンバー編成からして本気で挑んでいない米国に負けるわけにはいかないという強い意志が、打球に乗り移っていました。
第2回大会のハイライトは何と言っても決勝戦で韓国の守護神・林昌勇(東京ヤクルトスワローズ)から打った決勝タイムリー。
連覇目前の9回裏、土壇場でダルビッシュ有(北海道日本ハムファイターズ)が同点に追い付かれて突入した延長10回に誕生した、球史に残る名場面でした。
WBCでのイチローの姿は、長年に渡って作られた“クールな孤高の天才”という世間のイメージを大きく変えるものでした。
日本代表のリーダー的存在として振る舞い、時には感情を露わにし、不調に苦しんでいることを隠さず、最後の最後には本領発揮の一打でチームを救い、優勝の祝勝会で子供のようにはしゃぐ様に、多くの国民が魅せられたと思います。
今回の東京ドームでの開幕2連戦(プラスその前のプレシーズンゲーム2試合)でのイチローへの声援は、国民的英雄に対するそれでした。
ああいうタイプの選手なのでやはりアンチも多いわけですが、WBCを通じてイチローに対する見方が相当変わったのは間違いありません。
私にとってイチローは一貫してスーパースターでありスーパーヒーローでした。
その現役時代をリアルタイムで最後まで体験できたのは野球ファン冥利に尽きます。
そして現役最後の勇姿を現地で拝むことができたのは光栄の極みです。
でも、もう1打席だけでも、シアトルのファンに見せてあげてほしいという思いがあります。
それは9年前にセーフコ・フィールドで体感した、イチローに対する暖かい声援が忘れられないから。
背番号51が永久欠番になる前に、もう一度だけシアトルのフィールドを駆けてもらいたかった。
それは叶わぬことでしょうが、何らかのセレモニーは用意されることと思います。
地元ファンが納得するような形で最後の幕を下ろしてくれることを願っています。
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