群青色の時間

遥かなるマスター・オブ・ライフ<人生の達人>への道

北村薫「夜の蟬」

北村薫さんの「円紫さんと私」シリーズ。
作中で名前の明かされない主人公「私」が語るという形で綴られています。
所謂探偵役は春桜亭円紫という落語家で、「私」が持ち掛ける謎を彼が鮮やかに解いてみせる、という物語です。
ジャンルとしては、ミステリーの中の「日常の謎」と呼ばれるもので、殺人のような大それた事件ではなく、日々の生活の中で遭遇する謎を解き明かすというのが基本的なシナリオです(中には文学ミステリー的なものもあり)。
2015年に17年ぶりにシリーズの新作が発表されたことも記憶に新しい、と言いたいところですが、もう4年前か……。

「夜の蟬」という短編集には3つの作品が収められています。
そのうちの表題作「夜の蟬」が、個人的にこのシリーズで一番のお気に入り作品です。

正直なところ、謎解きの内容については、シリーズの他の作品と比較して出色とは思いません。
「円紫さんと私」シリーズは「私」の内面や人間模様を丁寧に描いており、そもそもが本格ミステリーというものとは違います。

短編「夜の蟬」では、「私」とその姉という、姉妹のやり取りの描写が印象的です。

私も妹が生まれてからは兄という立場で、幼少の頃から随分理不尽な扱いをされているという不満を抱えて育ちました。
ありがちなことですが、「お兄ちゃんなんだから」、「たった二人の兄妹なんだから」というようなテンプレ的なアレですね。
相手が子供だと侮って、理屈も通らないのに片方に我慢させることで場を収束させようというのはアンフェアだと、幼いながらに思ったものです。
今にして思えば、当時は両親も30代そこそこの若者ですし、人間の子供を育てるのもほぼ初めてだったでしょうし、二人とも長子ではないのでそういった扱いを受けた経験が少ないために兄や姉のメンタリティーを理解できていないという事情もあったんだろうなと思いますが……。

その一方で、妹の方も自分は年下だから損をしていると感じる局面はあったでしょう。
「お兄ちゃんの方が年上なんだから譲りなさい」というようなダブルスタンダードは大いに有り得たと思います。

兄弟姉妹でもお互いに誤解していることもあるし、分かり合えていないこともある。
そして、そこに踏み込まないまま、場合によっては軋轢や確執のようなものを抱え続けることも往々にしてある。

作中で「私」の姉は「私」に、「人間が生きて行くってことは、いろんな立場を生きて行くっていうこと」だと語りかけます。

自分の置かれた状況が自らの意思や願望とは無関係であっても、それを受け入れなければならない状況というものはある。
特に、血縁者との関わりについては選択の余地がないがためのジレンマも多々あります。

「夜の蟬」という作品の中で、「私」と姉の間にあったわだかまりは少なからず解消したと思われます。
しかし、何でも話し合えるような関係になったという様子でもない。
その距離感が実にリアルに感じられます。

夜の蝉 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

夜の蝉 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)